ベルリンから人生敗者復活戦。

ワーキングホリデーの失敗談を綴る。その失敗の過程と、失敗から出直す、敗者復活戦の過程も勝手に配信する。現在はベルリン→東京へ移住済。海外経験後の帰国生活についても配信中。

【Amazon Primeで映画鑑賞】セックスの匂いがしない恋愛映画『劇場』、King Gnu井口の配役が面白く、東京自体が大きな舞台セットに感じられる作品。

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Amazon Primeで公開されている又吉原作の映画『劇場』は136分を見続けるには、驚くほどに単調で、劇中の時間の流れがわからない。映画のラストでヒロイン沙希を演じる松岡茉優が「私、もう27歳になっちゃった。地元の友達はみんな結婚してる」と言うシーンがあるが、主人公の男、永田を演じる山崎賢人がそのセリフにハッとさせられるように、視聴している私も「えっ」と思わされるのである。それほどに、ぬるっとした時間を浪費していたら、ザラザラする質感の現実が押し寄せてきていたような驚きがあった。この映画は7年間も一緒に過ごした男女の恋愛映画だ。

 

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「劇作家」という自分であり続けるために、大切な人を傷つける不安定さ
主人公の永田は演劇に全てを捧げたようで捧げ切れてもいない、下北沢をフラフラ散歩ばかりしている劇作家だ。「バカみたいな演出をすることを『オロカする』って言われているのよ?」と自身の劇団「おろか」の劇団員から侮辱されるほど、イケていない。そんな男が、たまたま出会った沙希と恋人になり、ぬるっとした流れで沙希の家に転がり込む。
沙希は永田の世話を焼くことを生きがいにしているかのように笑顔を絶やさずに尽くすし、永田は沙希の優しさに包みこまれながら、真綿で首を絞められているかのような息苦しさも感じてしまう。永田は天使のような沙希を無遠慮な言葉で傷つけながら、劇団つながりの女性と雑な関係を結ぶ。そんな行動に罪悪感を覚えている描写もあるが、沙希に対して罪悪感を覚えるような不安定な状態を保たなければ、演劇に向き合う自分自身を保てないかのようだった。
「ここが一番安全な場所だよ」と沙希が永田を受け入れて、永田も「今ここが一番安全かな?」と聞くシーンもある。永田は、ボロボロになることで劇作家としての自分を模索しようとしながらも、本心ではどこかで沙希に救われたかったようだったし、演劇経験があり女優志望でもあった沙希はそれすら理解して、全てを許していたようにも見える。危うい関係性を保つことが二人の共通の望みである『永田が劇を作る』ことにつながると信じていたのだろうが、年を重ねるにつれ永田も、沙希もそのような関係性に無理があることに気が付いていく。

 

セックスもキスもない恋愛映画の性欲の行き場
これは、ぬるっと始まった関係性が、地下水が汚染されていくような目に見えないほどのゆっくりなスピードで、よどんでいき、そして立ちいかなくなってしまう恋愛映画だった。この恋愛映画には、セックスシーンどころか、キスシーンすら描かれていない。唯一のラブシーンは、永田から求めてベットの中で沙希と手をつないだ時だけではないだろうか。
永田のセックスはラフな気がする。きっと沙希の初めての相手も永田で、訳が分からないままに全てを許して、痛いときに痛いとも言えずに、永田が望むままに全てを許していそうである。
劇中の最後に「ねえ、神様」と沙希を呼ぶシーンがあるが、それほどまでに永田は沙希を神聖化している。純粋な存在とセックスすることに恐れをなして、外で解消する永田に対し、どんな形であれ、二人で住む家に帰ってくるのであれば許していた沙希。彼らが体の関係がないプラトニックな関係であったとは思えないが、(恐らく初めてを捧げた人だからこそ沙希が永田に心酔していったとも思えるし)後半に進むにつれ、二人の間に性的な匂いは感じられなかったし、永田も極端に避けていたように見える。沙希が「27歳なんだよ」といった発言の裏には、性的な欲求が満たされていないことで女性としての魅力の衰えを痛感し、年齢を気にするようになったのではないかとすら思える。
セックスを介在せずとも成り立つ関係性は十分にあり得るが、その関係性においては信頼感や相互理解、つまり会話などのコミュニケーションが必要不可欠だ。永田と沙希の関係性においては、いつも会話しているようで会話が成り立っていなくて、その不器用さを楽しんでいた無邪気な初期が過ぎれば、もうコミュニケーションすらわからなくなってくる。「すべて沙希が笑ってくれさえすればいい」と永田は望むが、後期では『いつも沙希が笑ってくれていた猿のお面』ですら笑ってくれなくなった時、コミュニケーションの細い糸が切れたように思えた。性欲だけでも発生していたら、肌でお互いの熱を感じることもできたかもしれないが、その熱さえ行き場がないので、コミュニケーションが成り立たないのである。

 

一人称が三人称になると見えてくる永田のクズさと、見えづらい当事者の「その瞬間の本物」
原作者の又吉さんも、映像化した映画監督の行定さんも「永田の気持ちがわかるし、作品を作っているときは周りの人が言うほどに永田がヒドイやつとはどうしても思えなかったんだけど、一人称の作品が、三人称の作品になったことで、確かに奴はクズだなって思った」という。

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沙希の当事者の視点であっても、いつ、どこで、何が具体的に良かったから永田にひかれたのかも、いつ、どこで、何が具体的に悪かったから永田と上手くいかなかったのかも言語化することは難しいだろう。だからこそ「別れよう」ではなく、「もう東京が無理なんだ」といって永田のもとを去るのだ。東京生活の大部分は永田とともにあったのだから「東京が無理=永田が無理」と分かりやすい構図が浮かぶのに、最後までお互いに曖昧な空気の中で答えを出したように見えた。
明らかにダメな恋愛をしている友人がいたら「そんな奴はやめておけ」ということは簡単なのに、いざ自分のこととなると「ダメだとわかっていても、その人を好きになってしまう」という気持ちもリアルだ。一人称の視点と、三人称の視点の違いは分かりやすいが、映画だからこそ三人称でこのストーリーを見てしまうと「バカな男と、バカな女が東京で時間を浪費した」ように見えてしまうかもしれない。
東京を去る沙希が「永君がいなかったら、私はもっと早く東京がダメになって帰っていたと思う」というセリフがある。このセリフは絶対に沙希の本心から出た言葉だと思う。平凡で何の心配のない豊かな生活を送っていても、身を焦がすような恋であったり、どん底から這い上がってくるような葛藤やその先の達成感を味わいたいと思わないだろうか。沙希には東京で過ごした時間や永田との日々を、後悔しているしぐさはなった。ただ変わらない自分たちの関係性に焦りを感じてしまって、その焦りに負けてしまった自分を恥じているようであった。「だって永君は本当に何も悪くないんだもん」というセリフも本心だろう。この一人称の視点に入り込んで鑑賞できた視聴者はこの映画を称賛し、三人称視点でしか見れない人には「単調で、バカみたいな若者の話」と片付けられてしまうかもしれない。

 

売れっ子劇作家「小峰」を演じたKing Gnu井口理が、現実では「永田」であった面白み

永田が憧れる「売れた劇作家」を体現している存在が「小峰」であり、その役はKing Gnuボーカリスト&キーボードの井口理が演じていた。2020年の音楽シーンはKing Gnu抜きでは語れないほど一気にスターダムに駆け上がったバンドだが、彼と行定監督のラジオ対談が非常に良かった。
(聞きたい人は以下のリンクからどうぞ。TOKYO FMの番組「TOKYO SPEAKEASY」7月15日(水)の番組で監督をつとめた行定勲さんと、同作に出演したKing Gnu井口さんが色々映画の裏話を話していて面白いですよ)

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「永田の気持ちがすごく分かっちゃうんですよ、俺はずっと常田大希のそばにいたので」と
話す井口に、「え~、じゃあ俺は井口君じゃなくて常田君に出演を頼むべきだったのかな?」と茶化す監督。ものすごくオドオドしながらも誠実に話す井口さんが好印象なラジオ対談であったが、永田の気持ちが痛いほど分かる人間が「小峰」を演じることが非常に面白いと感じた。
常田大希はKing Gnuの作詞作曲をすべて手掛け、なおかつそのMVを制作するクリエイティブチームPERIMETRONの主催者でもあり、かつNetflixで全世界に配信中の「攻殻機動隊 SAC_2045」のテーマソングを手掛けるMillennium Paradeという音楽集団を率いるリーダーでもある。つまり、売れっ子の中の売れっ子かつ、才能の塊で『鬼才』とまで呼ばれている男。そんな男に「お前の声は大衆に嫌われない声色だから」と言われてバンドに参加したのが井口である。井口はPERIMETRONに参加していなければ、King Gnuの他のバンドメンバー、ドラムの勢喜もベースの新井も参加しているMillennium Paradeにも参加していない。King Gnuの中でも、井口だけが少し方向性が異なる点があるのだ。

彼は昨年度までオールナイトニッポンでラジオDJを務め大好評のうちに終わらせた。継続を望まれていたのに自らの判断で終わらせたのであるが、最終回のメンバーからのメッセージに涙するシーンは永田のようであった。ベースの新井に「いつもメンバーの視線を気にしてるけど、もうお前は立派に一人で人前に立てるし、俺ら他の3人では間違いなく出来ないものになってるから。自信もって、もっと自分を認めてやりなね」という言葉をもらい、号泣するシーンはKing Gnuファンだけでなく、ラジオきっかけで井口のファンになった人々の琴線に触れた。そんな男が小峰を演じているのである。たった5分にも満たない出演シーンの背景を知ると、とても面白いと思う。King Gnuというくくりだけではなく、井口理という一人の人間としての魅力に惹かれる人が増えていくだろうな、と思わされた。

 

ベルリン国際映画祭で行定監督の舞台挨拶を見ることができたのは貴重な体験だった。

実は行定監督は二階堂ふみ主演の「リバーズ・エッジ」という映画でベルリン国際映画祭にお越しになった際、舞台挨拶を見ることができている。そもそも私は彼の監督作品「GO」(窪塚洋介主演、金城一紀原作)という映画がものすごく好きで、元々彼の作品のファンである。ご本人にサインをいただけた時は内心キャー!キャー!だった。

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日本の映画祭では監督さんと俳優さんにそこまで近い距離で質問したり、話しかけたりすることはできないが、海外の映画祭だと運が良ければ舞台挨拶付きのチケットがとりやすかったり、映画上映前後にロビーでサインをいただけたりすることもあるので、市民参加型のベルリン国際映画祭(通称:ベルリナーレ)はとても貴重な映画祭だと思う。コロナが落ち着いて、2月頃の仕事に余裕があれば、有休を全部使ってベルリナーレを堪能しにベルリンに行きたいなあ。

 

北下沢と高円寺の匂いをもっと知りたい。小説をもって珈琲を飲みに行こう。
最後に、この映画を見て北下沢と高円寺の匂いを知りたくなった。永田がフラフラと散歩していたのは、どんな街なんだろうか。
東京に出てきて2年経つが、申し訳ないぐらいにその地域をよく知らない。普段は恵比寿とか小綺麗なところで友人に会うことが多かったのだが、無性に下北沢とか高円寺を歩いてみたくなった。永田が言っていた「雰囲気の良い喫茶店で小説を読む」ということがしてみたいし、小さな劇場がどんなところなのかも知りたい。
東京という街は何度も映画で描かれているが、映画を見るたびに知らない街に思えることが多い。下北沢界隈では永田、沙希、小峰、それぞれの雰囲気を持った人とすれ違うのだろうと思うとワクワクするし、私もまた誰かから見たら何かの作品を連想させる人物であるのかもしれない。東京という街を生きるということは、それだけで舞台セットの中を歩いているようでもあり面白い。「演劇では何でもできる」と永田は言ったが、東京自体が大きな演劇のようにも思えた、そんな作品であった。