ベルリンから人生敗者復活戦。

ワーキングホリデーの失敗談を綴る。その失敗の過程と、失敗から出直す、敗者復活戦の過程も勝手に配信する。

5月13日公開!石井裕也監督作品映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」原作詩集、最果タヒを読む。

 

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「世界の最果てでサヨウナラ」

詩って本当に自由だ。「散文」って素敵な言葉だなって思う。

「渋谷の歌」とかヒリヒリしてくる表現だ。

映画の冒頭でも流れる代表作「青色の詩」の一節。

「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。」

これが映画でも詩集でも血潮のように、全ての文脈に流れて滲みでている。

 

「最果タヒ」だなんて色々無粋なことを勘ぐりたくなるネーミングだ。「タヒ」に横線を一本引いたら「死」だし、「〜したい」欲求の語尾の古文的表現「〜たひ」を彷彿とさせて、「この人は死にたくてたまらないのかな?」とすら思ってしまう。その上「最果」と付いてくるもんだから「世界の中心で愛を叫ぶ」ばりに、「世界の最果てでサヨウナラ」とばかりに自殺でもしたいのかと思った。なかなかに現代的な太宰治臭がする。いやだな、この人が好きだなって思ってしまったとが嫌だな。だって、この息苦しさから逃れたくてベルリンくんだりまでやってきたって言うのに。あの息苦しさの苦味が、まだ舌の上に残っていたのかもしれない。

 

文章から透けて見える「最果タヒ」の日常の視線、感情の世界観

「春の匂い」という作品で「いじめをしたことがある人しかいない店で食べたパンケーキが私の最後の青春だったかもしれない」という表現がある。「いじめをしたことがある人しかいない」という表現は、スクールカーストと言う弱肉強食のヒエラルヒーに置いて頂点に立っている人達、つまり「キラキラしているリア充の人しかいない店」といいたいのであって、そこを「イケている人達が集まる」という表現ではなく「いじめをしたことがある人しかいない」とかいてしまうところが最果タヒなんだと思った。そこに加わっていた自分がいた、という過去を示して「最後の青春」だったという。今はそんなヒエラルヒーの螺旋から降りた、もしくは距離を置きたい。彼女の背景と現在の立ち位置が一瞬で脳内を駆け巡る、すごい表現だと思う。

彼女の表現に多用される突然の「お前」「殺す」「死んでいる」という暴力的な表現と、並列される「愛」「夜景」「花」という綺麗なもの。ジェットコースターの感情の上下や表現の振れ幅からは、不安定で自分を持て余しながらも冷静に自分を卑下だってしている現代的な頭のいい女の子の思考回路がダダ漏れになっている。これがもっと俗っぽくなって「メリット」「デメリット」に二極化されたら外資系女子だし、そこに「フェミニズム」までぶち込んだら勝間和代さんに変身するのでしょう。この「どっちつかずでいる」という非常に疲れるスタンスで、女子であることを嫌悪しつつも女子でもありつづける葛藤のある女性は素敵だと思う。(非常に面倒くさいけれども)「最果タヒ」が詩の新時代と言われるのは、それだけ女性が疲れ切っているからではないだろうか。

そんな中でも一番好きな表現は「やぶれかぶれ」の一節。

「夢破れて山河有り。私さっさと山河になりたい。生きて必死で幸福探す人を下品って言い捨てて、一番下品な山河になりたい。」

積極的ネガティブで爽快感がある。もういいんです、いいんです、って言い切っている感じがスッキリしている。全然スッキリ出来ていないくせに、その一瞬だけは「勝った」みたいに、「解脱」できたかのような開放感がある文章の切り方。それでいい、って思う。

「最果タヒ」は映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」のヒロインそのものだった。ああ、この映画は「最果タヒ」と、彼女に出会って彼女の中にくすぶるどうしようもなく「それでも恋したい、愛されたい」という天の邪鬼な欲求を吸い上げて無条件に与えようとする青年との出会いを描いた、まさにラブストーリーだ。映画だけを見ても分からなかった「ラブストーリー」という宣伝文句が、この詩集を読むことで腑に落ちた。愛されたくて、愛されないことに疲労して、勝手に絶望して自堕落になっているくせに、「でも、いつかは」って想いも捨てきれないヒリヒリ感。

「最果タヒ」の作品は全てこのヒロインの視点なのであろうか、それともキャラクターは変わるのか。別の作品集も手に取って確かめたくなった。太宰治のように時にポップでクラシカルで、でもしみったれた僻み根性も消えない、そんな作風が好きだって思っちゃう私が嫌いだけど、しょうがない。

 

息苦しさの中にある悪趣味とも思える希望を提示した映画

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詩集を読み込めば、もう一度あの映画が見たくなる。「最果タヒ」の言葉に血肉を与えて精神を具体化したあの映像で彼女に会いたい。当初は池松壮介さんが演じる都会の底辺で生きる男性が強烈な印象を残していて、彼からの視点に入りすぎてしまっていたけれども、詩集を読んだ後では確かにヒロインの石橋静河さんが演じる女性がとても「最果タヒ」のイメージにあっていたと思う。グラマラスな美人でもアイドルみたいな作り込んだキュートさもない。それでも生きているだけで美しくなってしまう若さの、生命力のある綺麗な女性にもう一度会いたいな。

この映画との出会いはベルリン国際映画祭(通称ベルリナーレ)だ。ベルリンでやっと泥沼みたいな葛藤から抜け出して仕事を手にしてから一週間、映画好きの友人とベルリン中を駆け回って鑑賞した数ある映画の中の一つだった。仕事終わりの映画館巡りで疲労もたまってきていた水曜日。立て続けに見た映画の二本目。上映時間は夜の22:00から。平日の深夜上映にも関わらず、石井監督をはじめ主演俳優の二人まで出席していて、舞台挨拶と質疑応答まで行ってくれたことは忘れられない。

「こんな内容の映画を自由を愛するドイツ人が鑑賞して楽しめるのか?」と感じたあの頃の私に「ドイツ人も、ベルリナーのことも分かっていなかったな」と思う。ドイツ人は疲労しているし、ベルリンに住む人々は多種多様で、外国からの移民は、たとえヨーロッパ内から移住してきた人だって苦労の連続である。「クソみたいなストレスフルな仕事だって、ストレスすら受け入れてやって行かなきゃ、仕事にしがみつかなきゃ住んで行けない街がベルリンなんだ。ベルリンに住みたきゃ覚悟して仕事しやがれ。」とミーティング中にぶちまけたポーランド人の同僚を思い出す。何に比べたとしてもポーランドよりはベルリンがマシなのであろうか。

3ヶ月ドイツ人の会社で仕事をして、「日常」を手にして生活をしてきて、この映画はベルリンと言う都会に住む人々にも響いていたんだと分かる。この自由でアートで革新的な街だって、少し立ち止まれば排気ガスの臭いが鼻について物乞いのロマの人が目に入る。そして白人のドイツ人と思われる若い女性の物乞いもいれば、私の祖父と変わらない年齢の老人がゴミ箱から空き瓶を拾っている。(後で換金してパンでも買うのだろう、ビールかもしれないけれど。)ドイツ人だって気を抜いたら路上で寝起きすることになるのだ。

映画の冒頭の「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。」という台詞は、「東京」とは固定されていない。きっとベルリンだって同じなのかもしれない。ここも都会、顎を上げて前を見据えなければいつだって精神的な窒息死が待っているのかもしれない。

 

この映画は「何故ベルリンまでやってきたのか、忘れそうになったら見返したい映画」だ。

運命的な出会いを勝手に定義する時は「この作品は私の為に作られたのだ」とまで思い込みたくなる。口にせずともブログに書かなくても、私は見るべくしてこの映画に出会ったと思っている。きっと必然だったんだ。そして日本で映画公開となる5月末に、何の因果か更に人生を藻掻きたくてビザ更新間近で転職活動を始めようとしているのだから狂っているね。難民としてベルリンで暮らすルームメイトに話しても「仕事があるだけ有り難いのに」と理解はされない。その通りだからだ。「精神の安定と健康が一番大切だから」という根源的な欲求はいつだって一番最後に沸き上がるのかもしれない。私の生き方は、貴族的だと思われても仕方が無いね。

どうしても見栄をはったり世間体を気にしない精神力を持つことが出来なくてその環境から逃げてきたのが私です。これがベルリンまで来た最たる理由で、あながちバカだったとは思わない。「クソみたいな仕事にだってしがみついて行く」と覚悟を決めた人達を尻目に、「人間らしく生きたい」だなんて我が侭だとは自覚している。ここで「最果タヒ」みたいに「お前」「大嫌いだ」「死体」「死んでいる」という単語を並べて、ベルリンの「最果タヒ」を気取ってみれたら、私は何か殻を破れるのかもしれない。もしくは既に孵化してしまっているから私は「最果タヒ」にはなれないのか。私はベルリンで死体になるつもりは無いから、明日もボルダリング行って元気にピクニックとかしちゃいたいと思う。ちなみに私が一番好きな詩は「夏」です。

週末で予定と予定の間のスッポリと空いてしまった空白時間、そんな時間がある方はベルリナーレで私が映画を鑑賞した時に無駄に長い感想文でも読んでみて下さい。これです。

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夜空はいつでも最高密度の青色だ

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死んでしまう系のぼくらに

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